今日の実験ノート2

日々の調査研究

対馬疾走調査(前編)

2021年の話。念願の対馬に行きました。2泊3日で。フィールドワーク記録です。

フィールドワーク概要

最初のきっかけは中谷研究室で千年村マップのプロットしてるときに対馬壱岐のプロットが妙に多かったことなんだけど、そのあと宮本常一対馬にて」で書かれていた寄合いの民主的プロセス(皆が納得するまで何日も話し合う)を読んだり、海部陽介『日本人はどこから来たのか?』(文藝春秋、2016)の「対馬ルート」説(ホモサピエンス朝鮮半島から対馬経由で日本列島に到達したのが最も早い)を読んだりして、対馬はとにかく「最先端の土地!」みたいなイメージがあった。

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赤線が今回のGPSログ。走行距離は約500キロで2日間でほぼ全域を実見することができた。福岡まで航路で132キロ、釜山までは直線距離で49.5キロと韓国のほうが断然近い。

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対馬は、人口は3万470人(wikipedia情報、2019年時点)、総面積は708.5 km²と東京都(2,188km²)の約1/3の大きさである。まあまあでかい。厳密には白い線のとこで陸地が2つの島に分かれている。(だから対馬なのかは謎です)

概要

  • 日程:2021年5月8日、9日

  • 調査員:2名

  • 走行距離:498km(GPS

  • 調査目的:対馬の千年村候補地を訪れ、家屋や集落の特徴を把握する。

調査スタートまで

前日の夕方に福岡から航路で厳原港に到着。泊まれる寺こと西山寺にチェックイン。厳原にある居酒屋「すみっこ」で夕食。トビウオの刺身(300円!)がもちもちしててうまい。(トビウオは勝手に船に入ってくるらしい)。

お店の方から対馬の食文化について教えてもらったり、他のお客さんから「豆酘にいい石橋があるよ」と教えてもらったり、土建屋さんの社長と仲良くなったり・・やはりメシ屋の情報収集は大切だ。

それにしても23時まで居酒屋がやってる世界に感動してしまった。宿泊した西山寺はお寺に泊まれるだけでも楽しいのに、建物もめちゃくちゃ良く朝食も最高だったのでおすすめです。

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トビウオの刺身(300円)と西山寺

いきなり渡辺豊和
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(左)交通案内も韓国語スタンダード(右)展望所からつぶつぶ感

今回は福岡から同期の大崎(a.k.a ざきさん)が加わって2名体制の車内となった。厳原港でレンタカーを借り、対馬空港でざきさんをピックアップして、いざ出発。近くにあった烏帽子岳展望所から対馬のつぶつぶ感をチェックし、いざ最初の千年村候補地へ!・・・とアクセルを踏むも束の間、目の前にモスクみたいな屋根が現れた。

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モスクだ

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モスクの正体は渡辺豊和による1990年竣工の複合施設(文化会館・公会堂・郷土館)だった。圧倒的ハコモノ感だがとても綺麗に保たれていた。管理人の方は20年以上管理しているという。

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管理人の方は「廊下に空調がまともにないのはだめ」ともっともな意見を仰っておられた

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この天井よ。根拠不明な圧倒的な造形にテンション爆上がりする

調べてみると渡辺豊和による1990年に竣工した文化複合施設(文化会館・公会堂・郷土館)だった。建物を覗いてみると、アポなしにも関わらずスタッフの方に案内して頂けいた。本当にありがたい。

完成から30年になるがめちゃくちゃ綺麗に保たれている。THIS IS ポストモダン。THIS IS ハコモノ建築。しかし管理人の方の超丁寧な日々の仕事ぶりをみるとこれはすばらしく幸運なハコモノに思えてきた。なお対馬で出会った現代建築はこれが最初で最後である。

対馬の集落立地と3類型

まずは既往研究だ。

対馬対馬の民家・集落についての既往研究を調べてみると、対馬「集落形態の類型」については調査・研究がされていた(ウェブアーカイブが閲覧できる日本建築学会すばらしい)。

内田貴久、菊地成明「対馬における集落形態の多様性とその要因」(日本建築学会 中国・四国支部 研究報告、1996)によると、対馬の集落立地は地形によっておよそ次の3タイプに分類され、Aの海岸沿いに分類される集落が約80%を占めるという。

  • A:三方を山に囲まれ一方を海に面した小さな沖積平野に孤立して立地するもの

  • B:河川に沿って広がる平野に複数点在する形で分布するもの

  • C:山間に孤立して成立するもの

2日間回って見た集落もAかBのタイプだった。対馬は9割が山間部のため、これ以外の集落立地のバリエーションは現実的ではないのだろう。(Cの山間タイプは、今回の調査では実見しなかった。というか「集落」という形では殆どない)。

Aのタイプはその中でのバリエーションが多いのだが、意外だったのが海に面した集落が多いにも関わらず漁村ばかりでもなかったことだ。もちろん漁港が整備されたところもあるが、半農半漁か農業がメインの村の多かった。これは地形的な要因に加えて近世の政策もあるという。小林久高による博士論文「長崎県対馬市における伝統木造構法の特性:平柱を用いた架構法を中心として」(筑波大学、2008)に「海に面した集落立地の地形的な要因と藩政策が生業に及ぼした影響」について端的にまとまっていたので、(本論の木架構の部分ではないですあが)下記に引用したい。

分水嶺となる山々は島の東寄りを南北に走るため、東海岸は山地が急に海に落ち込む地形となり、水深の深い良港が発達しているのに対して、西側は比較的穏やかな地形で良港には恵まれていない。しかし、対馬の大きな川は西側に集中し、その流域には農耕地となる平地が発達している。昔からの集落は島の西側に多く見られ、東側の集落は明治以降の移住民によるものが多い。(小林久高、2008、P.15)

対馬においては厳しい地理条件にもかかわらず、藩の政策により農業が生業の主体であった。全島において岩がちな地質であるため地味は貧しく、平坦地が少ない。このため稲作の普及は進まず、山地におけるコバサク(焼畑)が主な農業であった。木材資源が豊富であるためかつては林業が盛んであったが、現在は木材価格の下落のために林業を続けている地域は少ない。南からの暖流(対馬海流)により海産物資源の豊富な地域であるが、近世においては漁業が制限されていたため専業の漁家はなかった。海の利用は限られており、浜に打ち上げられた海草を畑にまくための肥料としたり、磯場で採取できる動植物を補助的に採集した程度であった。(小林久高、2008、P.17)

なるほど「東側=急斜面で水深深い→漁港が発達」と「西側=緩斜面→農地が発達」という東西の対比があるのか。そして「農地面積が僅かで海産資源に恵まれているのに漁業が制限されていた」というのはなんとも興味深い。海という最大のカードが使えない中でどうやって営みが持続してきたのか、は気になるテーマである。

具体的に見ていこう。

対馬市峰町三根

対馬の海岸へ流れる三根川。その河川沿いであり、河川名の大字である峰町三根は『和名類聚抄』にも「上県郡三根郷」として記載されている。比定地は三根を含む複数の大字を指しているが、このように比定地が複数となる場合、基本的には郷名と同じ地名の場所に行くことにしている。

川沿いの家屋は、山際の一段高くなったラインにへばりつくように並び、旧河道を生産地(ここでは畑)にする土地利用をしている。ここは3類型のうち「河川に沿って広がる平野に複数点在する形で分布する」タイプになる。

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三根川のかつての流路を畑にしている

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いい石垣。ひとつひとつの石がでかい。色合いが全然違うけど左右で同じ石垣

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主屋、立派だ・・!(よく見ると敷地内に更に石垣がある)

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主屋から見て左手にある敷地内の倉。石垣と一体化している。対馬特有である平柱の石場建て。床は地面から1mほど高く設定されている。柱間の網は獣害対策だろうか?

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そして敷地から出た前面道路の向かい側にも小屋がある。イケてる切妻屋根は妻面の出がポイントだ

「主屋から見て左手に倉があり、敷地外に小屋」が対馬全体を通じて多く見られた付属屋のパターンだった。それにしても平柱(柱の断面が長方形)の小屋、めちゃめちゃカッコいい。平柱ゆえにどっしり建っていて、それでいて床は地面から離れているので、地面から生えてるのに浮いてるような感じがある。

対馬市峰町青海
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左:Google Earth 右:人文地理学者の山野正彦氏による青海の概略図

青海は昭和に入るまで両墓制が残っていた地域として知られており、建築だけでなく文化地理学などでも研究がなされている。3類型でいうと一番多い「1面が海で3方が山に囲まれた」タイプになるが、漁港などは整備されていない。

家屋は、小さな河川がつくる谷の山際に2列に並び、それらをつなぐ道に小屋群がまとまっている。家屋と小屋が畑を楕円形で囲んでいるため、広場のようなかたちになっているのが特徴的だ。かたち砂浜の近くには墓地(かつての埋め墓)がある。

興味深いのは唯一の神社が海沿いの離れたところにあって海岸沿いを300mほど歩かないとたどり着けないことだ(満潮時にはアクセスできないという!)「向こう感」がかなりある配置だ。

文化地理学者の山野正彦は、青海の「場所の意味付け」について次のように述べている。正直すべてを鵜呑みにしていいか分からないが、RAUの文脈でいうと直接的に「わたしはどこにいるのか」を考えさせるテキストだ。

青梅では人々の日常生活の営まれる日常的空間と、神社や墓地などの非日常的空間が別かれている、あるいは、日常的空間を一歩外へ出ると非日常的な特別なしるしのついた場所があちこちに存在するといえる。(中略)ムラの中にカミの山やシゲ地・天道地などがあって、俗なる日常生活の空間と聖なる非日常空間が別かれた構成をもつムラは、対馬全島にわたって数多くの例が見られ、対馬の文化の大きな特徴となっている。(中略)青梅のようなムラは、景観が均質化して場所の意味が失われ、人とその生活の場が融合的に意識されることがなく、切れ切れの断片として存在している近代の都市世界とは対局にある世界である。そこでは場所が豊かな意味を有しながら人々を取りまき、その身体と融合している。このような世界を微小で息の詰まった閉じた世界とみなすことは必ずしも当を得ていない。なぜならムラの日常世界は、墓地、天道地、山のカミの松、ヤクマの塔などを通じて、現世を支えているもうひとつの別の世界 - 彼岸の世界につながっている。世界に住まうということの原点がここにみられるといっても過言ではない。対馬の村落のデザインはローカルな伝統文化が地上の外貌として表れたものであり、村落生活の発露であり、また村人の思考と行動への道標であると考えられる。『文化地理学』(大島襄二ほか編著、古今書院、1989)

対馬の山がちな地形を考慮すると、かつては青海へは海からしかアクセスできなかった可能性もある。過去には青海で生まれて一度もそこを出ないまま生涯を終えた人もいたかもしれない。であれば尚更、海は物理的にも精神的にもこの世界と別の世界をつなぐ/分ける象徴となる。

大なり小なり、過去からバトンを受けて未来にパスする「その土地の物語」に接続できることは幸福なことだと思うし、都市部に生活する私とも全く関係ないわけでもないとは思うのだが、やっぱり土地と身体が不可分な感覚みたいなのは実感としてぜんぜん分からないし、同時に憧れてしまう。

話は変わって先日、「住宅のユートピア」というトークイベントを聞きにいって、住宅のユートピア(僕の解釈でいうと「"今ここ"ではないどこかに接続できる可能性を感じられること」)はとても豊かなことだと改めて思ったのだが、そういった豊かさが(家族とか土地の物語と接続していない?)われわれにとって重要な話になってくるんじゃないか、とか思ったりしたのだった。

続くかも