今日の実験ノート2

日々の調査研究

ウガンダにおける西洋建築の受容(ナミレンベ大聖堂を事例に)

ひさしぶりのブログです。これを書いているのは2021年の7月だがウガンダにいたのは2018年の5月。何を3年前のことを、と自分でも思ったけど面白い事象なので書き残しておきたくなった。長いけど渾身の記事です。

 

ところでウガンダといえば失踪したウガンダ選手が心配だ。警察に保護されたとこまでは良いが、難民申請をしたいと言ってるにも関わらず大使館(つまりウガンダ側)に引き渡してしまった。どんな懲罰が待ってるか分からないというのに。もっとも日本の入管法は地獄みたいな制度なので、ウガンダ選手の彼が、無事難民になれたかどうかも分からないけど。渋谷イメージフォーラムで現在公開されているドキュメンタリー(イケメン)映画「東京クルド」では、入管のあまりの非人道的さがまざまざと映されているので、オリンピックの今だからこそ見るとよいかもしれません。

閑話休題

ウガンダの首都カンパラには7つの丘があると言われている。丘の上には歴史的建造物や遺跡や大学が立地し、日本と物価が変わらないような高級ショッピングセンターや高級ホテルもある。一方で丘を下るとあからさまに物価も下がり、舗装も雑になり、空気も排気ガスでスモッグみたいになる。貧富の差と標高差が笑えるくらい明瞭にリンクしているのが特徴のひとつだ。

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モスクの塔から撮影したカンパラ。右奥に見えるのがPearl of Africaという高級ホテル

そしてこの投稿で取り上げるのが、7つの丘のひとつのナミレンベに建つ、ナミレンベ大聖堂(Namirembe Cathedral)の変遷についてである。

カンパラ2日目、安宿からタクシー(に乗ったのはこれきりで、あとは路上バイクタクシーを見つけてはカンパラでよく見られるノーヘル3人乗りスタイルになった)に乗ってナミレンベ大聖堂を訪れてみると、ちょうど結婚式をやっていた。

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左:やはりレンガ壁。女性たちは伝統衣装のゴメス(ggomesi)を着ている 右:男性陣と女性陣で衣裳お揃いなのが超かわいい!

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内部。バシリカだけど奥行はあまりなく、ちょっと集中式っぽい?
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左:屋根は切妻屋根が袖廊方向に4つ並びボリュームが分割されている 右:家型のところの内部

1919年に完成したこのプロテスタントの教会は、100年以上が経った現在もこの場所で現役バリバリで、とても綺麗に管理されていた。

ナミレンベ大聖堂はウガンダで最も古い大聖堂で、内部のオフィスにちょっとした資料スペースがあったので覗いてみた。そこで分かったのは、現在の建物は、数えて4代目の大聖堂になるという。つまりはそれ以前に3つの大聖堂がこの場所に建てられ、そして消失したことになる。ふーん、ウガンダってそんな昔からキリスト教あったのね〜とか呑気に眺めていたら「The First Cathedral」として衝撃的な模型が展示されていた。

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・・・・・マジか!!!!!!

初代大聖堂は茅葺き木造だった。あとなんだこの形

しかも1892年に完成ということは、1919年の4代目大聖堂の竣工からたった27年前の話ある。

オフィスでこのナミレンベ大聖堂の歴史について書かれた英語の本が売ってたので即買い、帰国後に気合で(DL翻訳の力を借りて)読んでみたら、めちゃくちゃおもしろかったので、時代背景をふまえつつ、第1世代から代4世代までの変遷を整理してみたい。

その他、Daily MonitorというWEB記事にもある程度まとまっています。↓

0)キリスト教の布教と大聖堂を建設する前まで

以下、ナミレンベ大聖堂で手に入れた本、Karen Moon著『St. Paul's Cathedral, Namirembe: A History and Guide』(1994、Uganda Printing and Publishing Corporation)からかいつまんだ概要です。(以下この本については『ナミレンベ本』と呼ぶことにする。)

・1875年、ブガンダ国王がイギリスへ送った手紙が英国新聞紙紙に掲載される。キリスト教宣教師を呼びかける内容だった。ブガンダ国王は、敬虔で実用的なキリスト教を取り入れることともに、イギリスと同盟を結ぶことでブガンダの軍事力を強化する狙いがあった(武器の提供を狙っていた)。しかし、ブガンダ国王は「宣教師たちの背後には植民地主義があること」を知らなかった。そしてウガンダは1894年から1962年までイギリス領となる。

・1877年に最初の宣教師がブガンダ王国に到着する。そこからキリスト教の受容までには色々とあり(司教が殺害されたり改宗者が何百人と焼き殺された)、1889年以降、ナミレンベの丘はプロテスタントの活動の場となっていった。

・最初の大聖堂の建設の前の1890年に、800人程度を収容する最初の教会が作られたが、サイズも小さく敷地も沼の近くであったため、2500人程度を収容できる大聖堂が構想された。(以上P4〜P9記載内容を要約)

・・というわけで1877年にウガンダに最初の宣教師が入ってから13年後、ウガンダキリスト教の教会や大聖堂の建設が始まるのだが、作るのはウガンダの人たちである。また建材の条件もイギリスとは全く異なる。西洋的なコンセプトであるキリスト教の大聖堂を、ローカルな材料と構法で作るときに何が起こるのか?・・ということに主眼をおいてみていきたいと思う。

1)初代大聖堂 - 屋根と平面のミスマッチ

  • 建設年:1892年
  • 設計者:Nicodemo Sebwato(Budduという地域の首長)
  • 主要構造部:茅葺き屋根、葦の壁、牛糞による土間
  • 柱の樹種:アカネ科アビュラ(Nzingu ローカルの常緑樹。建材として使われる)
  • 平面形状:24m×48m(単純計算で1152㎡の平屋建)
  • 収容人数:約3000人

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初代・ナミレンベ大聖堂の写真

めちゃくちゃでかい。でかすぎ。なんだこの遊星から降りてきたような形は…

『ナミレンベ本』によると、この大聖堂は宣教師と現地のキリスト教信者たちによって作られたとある。このデカさもさることながら、特筆すべきは屋根は丸いのに平面形状が四角形なっていることだ。下記は本に記載されていた平面図である。屋根は円形だが壁で区切られた平面形状は長方形となっている。

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初代大聖堂の平面図と外観写真 出典:Karen Moon著『St. Paul's Cathedral, Namirembe: A History and Guide』(1994、Uganda Printing and Publishing Corporation)

四角い間取りはわれわれにとっては当たり前に見えるが、当時のウガンダの建築の平面形状は円形であった。ちなみに当時の円形住居はその後に行った国立博物館の屋外展示エリアで見ることができた。

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国立博物館に展示されていた民家

また『ナミレンベ本』において伝統的なウガンダの建築は、王室のスケールにおいて、ムテサ一世が1884年に埋められたカンパラのカスビの墓でいまでも見ることができる。(P9)」と紹介されている歴代国王の墓地に実際に行ってみたところ、やはり平面は円形であった。茅を編み込んだ太い綱(リング)を同心円状に配置し、適宜柱を建てて屋根を作っている。柱の配列の法則は分かりずらいが、同心円上にバランスをとって並べてられている。

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ウガンダ歴代国王の墓のひとつ。しめ縄みたいな円形の梁が同心円状に配置される。それにしてもすごい天井

初代大聖堂の柱の材料として500本近くの木が切られた(中略)伐採後は5、6日の旅を持って来られたものもあり、運ぶために数百人の男性を必要とした。柱は従来のウガンダの同心円上の配置ではなく、長方形の計画に合わせた列状に建てられた。(P.8から要約)

『ナミレンベ本』によると、この形、つまり、長方形平面になった経緯として「宣教師と現地の信者の意見交換によって生まれた」と書かれている。

「教会を円形ではなく長方形に建てようという本能的な衝動は、ヨーロッパで育った者にとっては当然のことであり、ウガンダの建築にとっては異例だった」(P9)

この意見交換というか打合せはメチャクチャ見てみたかった。

「え、丸いの?普通は四角だけど・・?」「や、いやいやそっちこそ・・」みたいな掛け合いがあったのだろうか。その結果としてウガンダの円形は屋根に残され、西洋の四角は平面に残されたのかもしれない。

そうして完成した初代大聖堂完成であったが、なんと竣工から僅か2年後の1894年に嵐によって倒壊してしまう。

崩壊の要因として「規模(scale)の大きさ」や「窓の多さ」、「柱が地中で腐ったこと(単一樹種だったのがよくない)」また「屋根に雨漏りがあったこと」が挙げらえているが、円形屋根と長方形平面によるミスマッチもその一因であったと考えられる。一本一本の柱にかかる荷重の分布もバランス悪いし、平面と屋根のズレが雨漏りの要因となった可能性もある。

2)二代目大聖堂 -マイナー・バージョンアップ-

  • 建設年:1895年(より強い大聖堂を作るため1901年に解体)
  • 設計者:Sir Apolo Kaggwa(ブガンダの首相)
  • 主要構造部:茅葺き屋根、木の柱、葦の壁
  • 柱の樹種:ヤシの木(palm trees)、アカネ科アビュラ(the Nzingu)、ルサンビア (Lusambia)の3種類。とくにルザンビアは重く運ぶのが大変だが、防腐性と防蟻性に優れる
  • 平面形状:初代と同規模とあるが寸法は無記載。より細長い長方形平面
  • 収容人数:約4000人(1000人増えた)

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二代目大聖堂の模型写真

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第二世代の写真。右の写真が解体時の様子(!)

驚くべきことに、初代の崩壊からわずか1年後に2代目大聖堂が完成している。それだけ教会が求められていたのだろう。そして相変わらず超でかいな!

(二代目大聖堂は)約4,000人の礼拝者を擁し、6年から7年の間プロテスタントのコミュニティに奉仕した。(中略)当時、この教会は、サハラ以南のアフリカで最も注目すべき3つの教会の一つと考えられていた。(他は「ブランタイヤのスコッチミッションと ザンジバルの大聖堂」)P.12

初代の反省を活かし、柱を腐りにくい樹種に変更するなどの改善あった。肝心の屋根形状も、細長い長方形平面に合わせた寄棟屋根に近い形状になっている(青木淳/ASの「F」にちょっと似てる)。一方で、木造や茅葺き屋根といった主要構造部の素材は初代大聖堂から変わっていない。

二代目大聖堂は、完成から5年後の1900年になるとシロアリが侵入してきており、何もしなければ先の建物のようにすぐに倒壊してしまうのではないかと危惧されていた。この頃にはプロテスタントの宣教団も大きくなり、恒久的な大聖堂が望まれるようになった。

1901年には次の大聖堂建設のために取り壊すことになったが、右上の解体時の写真がすごい。屋根の上に人が乗りすぎて、写真のキャプションでも「危ない」と書かれる始末である。

恒久的な大聖堂の建設にあたり、材料が問題となるが、近くには石が手に入らないため、レンガが提案された。

3)三代目大聖堂 -レンガの登場-

  • 建設年:1901年
  • 設計者:Kristen Eskilden Borup(イギリスの宣教師協会のエンジニア)
  • 主要構造部:[基礎]焼成レンガ[柱・壁]日干レンガ、[屋根]茅葺き(600トン以上の茅)
  • 平面形状:十字形平面。主廊は長さ64m、幅15m、側廊は幅30.5m
  • 収容人数:4000人(客席として用意)

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三代目大聖堂の模型。屋根形状が大聖堂感あるのに茅葺きのギャップがすごい。模型を覗くと壁がレンガであることが分かる

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外観写真と設計者のボラップ。ボラットではないので注意

このファサードやばくない!?クソかっこいい・・

ここで気になるのがウガンダにおいて今では最もポピュラーな建設材料であるレンガは、いつ登場したのだろうか?」ということだ。宣教師たちによってもたらされたのか、あるいはその前からあったのか?

『ナミレンベ本』を読み進めていくと、ウガンダにおけるレンガ建築の嚆矢はイギリス由来によるものであると理解できる。最初期のものと推察されるのが、1875年に到着した最初の宣教師の一人であるアレクサンダーマッケイが建てたレンガ造の自邸である。三代目の大聖堂が計画された時期(おそらく1900年前後)には首都でもレンガ造の家がいくつかみることができた。

ウガンダにやってきた宣教師団体は、キリスト教とともに産業ミッション(具体的には、大工技術や印刷技術を伝える活動)を行っており、レンガ製造もその一環として教えられていた。この産業ミッションの中心人物であり、そして、後にウガンダの主要産業となる綿花の栽培に広めた人物として名が知られたのが、三代目大聖堂の設計者であるボラップ(Kristen Eskilden Borup 宣教師団体のエンジニア)である。

ボラップは有能な男で、ほとんどのことに手を出すことができた。(中略)彼は1900年5月にオープンしたメンゴ病院の新しい建物の完成を監督した。ボラップは、有力な酋長や人々から、この仕事(大聖堂の設計・建設)に最適な人物であると考えられていた。彼は建築家と技師の職を快く引き受け、すぐにロンドンのテンプル教会(Temple Church)をベースにしたデザインの制作に取り掛かりました。(P.13)

超有能エンジニア・ボラップによって設計された3代目大聖堂の最大の特徴は、恒久性を求められたことから、18本の柱・壁・基礎が耐火性のあるレンガによって作られたことだ。(ただし、基礎だけが焼成レンガであり、壁と柱は日干しレンガである。)

屋根材については、今回も茅葺きによって造られた。

革新性はレンガだけでなくデザインにも見られた。今までの宣教師と現地住民の意見交換による設計が終わり、ついに具体的なデザインの参照先(Temple Church、London)が登場した。平面や立面においてTemple Churchとの類似性はないし素材も違うが、窓の形や、天井のアーチの感じはたしかに似ている。

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左:Temple Church(画像出典:http://www.templechurch.com右:三代目大聖堂の内観 画像出典:Karen Moon著『St. Paul's Cathedral, Namirembe: A History and Guide』(1994、Uganda Printing and Publishing Corporation)

それ(3代目の大聖堂)は非常にユニークなものでした。内部の開放感、ヨーロッパの建築とバガンダのデザインの実りある組み合わせ、葦で装飾された高さのある内部ドームの成功、そして単純に、このプロジェクトの規模は、この時のウガンダのコミュニティの技術と忍耐力の両方の驚くべき能力を証明していました。(P.17)

こうして高い評価を得た三代目大聖堂だったが、完成から9年後の1910年、またしても苦難が訪れる。大聖堂に雷が直撃し、屋根が崩れ落ちてしまった。

記録によると、その日は雨季の平凡な日だったという。周辺は真昼間のなか、暗い雲が空を埋め尽くした。その時、ものすごい音がした。ナミレンベの丘の目立つ位置にある大きな茅葺き屋根が雷に打たれたのだ。10分もしないうちに屋根全体が燃え上がり、15分もしないうちに崩れ、1年分の仕事が破壊された。(P.18)

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崩壊した三代目大聖堂 画像出典:Karen Moon著『St. Paul's Cathedral, Namirembe: A History and Guide』(1994、Uganda Printing and Publishing Corporation)

耐火性を考慮して建設した大聖堂の、唯一の可燃材料である茅葺きの屋根だけが、雷によって燃え落ちたことはなんとも皮肉めいた話だ。寓話のようですらある。

20年足らずの間に3回もの建て直しを行うことは、宣教師協会にとっても、プロテスタント信者にとったも大きな痛手だったようで(そりゃそうだ)、当初は屋根だけを金属あるいはアスベストタイルで葺き替えることも検討していたが、最終的には、新しく、より恒久的な大聖堂の建設を望むようになった。

大聖堂の破壊に失望したプロテスタントの改宗者たちは、3つ目のレンガ造りの大聖堂よりもさらに野心的な仕事を始めようと決意しました。(中略)彼らは、彼らが聞いたことのあるイギリスの大聖堂のように、何世紀にもわたって続く大聖堂を望んでいたのです。(中略)火事が起きてから2ヶ月以内に、彼らはタッカー司教にイギリスで設計図を送ってくれる建築家を探すように依頼しました。このようにして、カンパラ聖公会大聖堂の設計はベレスフォード・パイトに任されました。(P.19)

4)四代目大聖堂 -初の「建築家」によるデザイン-

 四代目大聖堂のデザインは、イギリスの建築家、アーサー・ベレスフォード・パイト(Arthur Beresford Pite 1861-1934)に依頼された。

さて、ここでどうしても気になるのが、「英国建築家がウガンダに大聖堂を建設するとき、どのようにローカリティを汲み取り、どのデザイン(様式)を選択するのか?」という問題だ。これについてはパイトも考えていたようで、彼のデザインの思想について下記のように書かれている。

・ヴァナキュラーな伝統への関心は、パイトの世代に典型的なものだった(P.46)

・パイト(と彼の仲間のギルドマン)にとって、クラフトマンシップ、材料、構造の問題、そして地域の建築の伝統と環境への意識が、デザインへの主なアプローチだった。(P.20)

・パイト自身も、特に初期の作品ではゴシックに敬意を表しながらも、特定の様式にこだわることはなかった。(中略)建築技術の第一の真理を生涯にわたって探求する中で、彼はいくつかの様式の要素を自由に取り入れた。(中略)ゴシック建築ミケランジェロマニエリスム建築、ビザンチン時代の作品などを探求し「スタイルはほとんど重要ではない」と宣言しました。(P.20)

パイトは、構造の正直な表現を求めていたため、装飾の軽薄な使用を拒否した。(P.20)

上記の記述に見られる「さまざまな様式を編集させていくような手付き」はまるでジョン・ソーン邸のようだが、ここで彼の初期デザインを見てみよう。

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フライング・バットレスがすごい RIBA Collectionsに利用申請を行い使用 Credit: RIBA Collections  Ref No: RIBA85933

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パイトによるドローイング RIBA Collectionsに利用申請を行い使用 Credit: RIBA Collections  Ref No: RIBA32552、Ref No: RIBA32552、RIBA85856

初期デザインは、ゴシック・アーチの使用に依存しており、北イタリアの大きなレンガ造りのゴシック教会をベースにしていますが、ゴシックの特徴は部分的にしかありません。交差点のドームと塔の丸いアーチはビザンチウムの建築を思わせ、キリスト教会の歴史を反映している。(P29)

見る人によっては特定の様式に偏らないようになってるのかもしれないが、フライング・バットレスの印象が強すぎてバキバキのゴシック建築に見えてしまう。というか、ウガンダのローカリティの話はどこ行ったんだ?とツッコミたくなったが、『ナミレンベ本』では、パイトがウガンダの伝統的な建築デザインを直接的には取り入れなかったのは、建築における永続性を求めるうえで意図的な(というか仕方ない)ものだったいう。そのかわり素材にはできるだけローカリティを反映しようとした。

煉瓦やタイルの材料となる木や粘土は建築現場の近くにあり、石はその辺で採れたものである。これらの要素は、環境との共感(sympathy with the environment)を目指すパイトの目的に合致するものであった。(中略)パイトは、その土地の伝統的な建築物を明らかに反映させようとはしなかった。それは簡単なことではなかっただろう。ウガンダの建築には永続性というものがない。(P.46)

また、3代目大聖堂が茅葺き屋根によって燃え落ちた反省から、耐火性をどうするかはやはり重要な問題で、パイトの提案は「コンクリートのドームと瓦による二重屋根(P.29)」というものだった。ブルネレスキか考えたサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂みたいなアイデアだろうか。

その他、『ナミレンベ本』では「パイトの最初の設計は全体的に素晴らしいものだった(p.30)」という前置きのうえで、「不十分な換気計画」や「屋根の緩勾配や張出しの無さ(地域の豪雨を考慮されていない)」ことが指摘されている。パイトお得意の(周辺環境を含んだ)鳥瞰パースも、本設計において描かれることはなかったという。

パイトは、国や状況についての限られた知識に阻まれていた。彼がウガンダを訪れたという記録は残っていない(中略)彼が持っている敷地や場所に対する感性は、必然的に制限され、気候的な要因に対する考察も不足していた。(P30)

1910年代でロンドンからカンパラへの移動は並大抵のことではなかったのだろうか。や、さすがにそこは行ったほういいだろ〜。

5)メイキング・オブ・四代目大聖堂

  • 平面形状:十字形平面 幅42m、奥行64m(図面より測定)
  • 高さ:棟まで15m、ドームまで26m
  • 柱:焼成レンガ(ドームを支える柱だけは石材(砂岩)を使用)
  • 壁:焼成レンガ、目地に石灰モルタル(lime mortar)
  • 屋根:瓦葺き(ドーム部分は亜鉛めっき鋼板だが、後に銅製に改修された
  • 基礎:コンクリート
  • 床:石材の代わりに焼きレンガを使ったテラゾー

はじめて建築家が設計した四代目大聖堂。その建設はめちゃくちゃ大変だった。素材ごとに建設過程を整理してみたい。

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模型写真

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ナミレンベ大聖堂 RIBA Collectionsに利用申請を行い使用 Credit: RIBA Collections  Ref No: RIBA30335

大聖堂が完成したのは1919年だが、材料の調達や敷地の整地を含めると工事は1911年から始まった。まず、三代目大聖堂のレンガによる基礎を撤去する必要があった。そのためには1.5mの高さの地面を掘削しなくてはならず、整地工事は1911年11月まで行われた。

レンガ

壁と柱の材料になるレンガは、全て焼成レンガとすること、目地は石灰モルタルとすることがパイトによって指示された。およそ500万個(!)のレンガが必要となるため、安定したレンガの生産体制を作る必要があった。まとめるとこんな感じだ。

・薪の取れる場所の近くに良い粘土を見つけるのは難しく、1911年のほとんどの期間、さまざまな場所で粘土を掘った。

・敷地から15マイル(約24km)の距離まで粘土の掘削地を探したが、作ったレンガを燃やしてみると、どれも満足いく仕上りにはならなかった。

・その年の終わり、敷地から4〜5マイルにあるルフカ渓谷で、良質の粘土を含む沼地を見つけた。薪は隣の森で採れるので便利だった。この場所は王室の土地であることがわかり、何年かの期限付きで借りる契約を結んだ。

・レンガ作りを監督するヨーロッパ人を探し、1911年に鉄道や橋梁の建設に携わっていたブラウ氏に依頼をした。

・レンガの品質の安定性に問題があったため、粘土を混ぜたりレンガを押し出すのに適した機械をイギリスに問い合わせ、ホーンズビー社の24馬力のオイルエンジンとレンガ製造機を注文したが、到着までに1年を要した。(P.30-32から要約)

目地

また、目地に使われた石灰モルタル(lime mortar)は、 セメントの代わりに石灰と水と骨材を混ぜたモルタルで、どちらかというと漆喰に近い。2018年のウガンダで見られたレンガ積みも石灰モルタルで積まれていた。強度上はセメントモルタルの方が強いので、セメントが手に入れにくい立地なのかもしれない。この石灰については、蒸気船を使って建築家であるパイトの元へサンプルを郵送し、承認を経て使用された。

サンプルのチェックバックも一大事である。

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ウガンダで見られたレンガ積みと石灰モルタル
コンクリート

初代&二代目大聖堂の基礎はなく(掘建て柱)、3代目は基礎に焼成レンガを用いたが、とうとう今日の私たちが使っているコンクリートを基礎に用いることになった。とはいえ当初は基礎には石材を使うつもりだった。

・基礎は当初、石材を使用する予定だったが、ウガンダに基礎となるような石はほとんどなかったため、コンクリートを使用することとなった。

・海外から500バレル (液体換算すると約8万リットル)のセメントを取り寄せることになったが、セメントの到着は遅れに遅れ、さらに輸送中の不手際で10%が失われた。

・今までの建設は(レンガ積みの職人などを除き)基本的には教会員の自らの手によって建設していたが、コンクリート打設のような大規模な工事、かつ未知の部分が多い工事を請け負ってくれる業者はウガンダにはいなかった。

・隣国ケニアの首都ナイロビにあるJクック社が基礎工事を請負うことになり、厚さ2フィート(約60cm)の基礎の耐圧盤を打設することになった。しかし、Jクック社が経営難に陥り、建築部門を手放すことに。新しい業者を探す間、基礎工事は中断された。

こんな感じで色々あったわけだが、1914年12月、基礎工事が完了した。といっても、当初の設計プランと明らかに規模が縮小しているので、完成した基礎は、図面のうち、パイトが指示していた「第一段階」の部分であると予想される。(着工前の時点で、機能上、中心部となる第一段階と、周辺部の第二段階に分かれていた)。このときに改めて完成までの見積りをとった結果、4万ポンド掛かることが分かった(当初の工事費用は2万ポンド)。当時のウガンダは急速に産業が発展し、ゴム・コーヒー・綿花のプランテーションに大量の労働者が奪われており、大聖堂の建設に大量の労働者を動員することは難しかった(三代目のときは1000人単位で動員してたという・・マジか・・!)

1914年の8月には第一次世界大戦も始まり材料費がさらに高騰する。資金面・労働力の面からいよいよプロジェクト全体を見直さなければならなければなくなった。

6)大幅なデザイン変更とVE、そして完成へ

1915年、設計変更の依頼の妥当性が認められ、パイトは建物の縮小とデザインの改良を行った。ここであらためて当初の設計図と現在の姿を、同じ立面方向から比較してみよう。

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ナミレンベ大聖堂(画像出典:Outsource Television「Saint Paul's Cathedral, Namirembe https://www.youtube.com/watch?v=RMlEmYEWQo0

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初期デザインの南側立面図 Credit: RIBA Collections  Ref No: RIBA32650 

もっとも大きな変更として、西側の棟がまるまる中止されていることがわかる。建物の高さも低くなり、全長も2/3くらいの長さになっている。俺たちのフライング・バットレスも全て中止され、ひとまわりコンパクトになった感じだ。

西側の塔と、後陣を囲む歩廊は放棄された。二重屋根も廃止された(中略)その代わりに、木を使った開放的な屋根に瓦を葺くことになった。壁の高さを下げ、屋根のピッチを上げることで、同等の高さの内部を作ることができたが、コストは明らかに削減された(P.36)

壁の高さが低くなったことで、身廊と聖堂に高窓を設けることができなくなったため、パイトは十分な採光を得るために、南と東の立面に4つの切妻を設け、それぞれに窓を設けた。(P.38)

現地で見たとき、切妻の多さに違和感を感じていたが、その理由は、建物全体の高さを抑えつつハイサイド窓を確保するための工夫だった。

・彼は、オリジナルのデザインの基本的なエネルギーを維持することに成功し、大幅に減少したオリジナルの計画から、刺激的で想像力に富んだ建物を生み出した。(中略)特に、パイトは建物完成までの見積もりを3万2,000ポンドから、すでに支出された分を除いて約2万ポンドに減らしていた。

・興味深いのは、建築委員会の反応である。彼らは、新しいデザインが以前のデザインよりも大幅に改善されていると評価していた。(P.39)

ナミレンベ大聖堂は、このデザイン変更によってVEに成功し、工事が進められることになった。その後もいろいろあったが、1919年にとうとう完成した。

以上、ウガンダへのキリスト教の布教から初代〜4代目大聖堂の建設までをみてきたが、かたちとしてどれもめちゃくちゃ面白い。ユニークなかたちの理由の一つは、作り手であるウガンダの人たちが西洋建築のことを知らなかったこともあるだろう。初代と2代目大聖堂は「宣教師と現地信者たちの意見交換」によって設計されたし、3代目の設計者も建築家ではなくエンジニアだ。言語によるハードルもあっただろう。

日本でいう擬洋風建築の「みようみまね(By 中谷礼仁先生)」のようなプロセスを経たからこそ生まれた建築であるといってもいいかもしれない。

今の大聖堂こそ英国建築家によるデザインだが、当初予定していた石材がないため、壁も屋根もその土地の粘土からつくられた結果、地面から連続したような色合いになっている。この素材であれば、当初の設計図よりも今の形のほう良いし、この場所に馴染んだかたちになっていると思う。